小山の歴史Q&A
Q6
小山氏の戦い方は?

 小山氏は多くの戦いをしている。源頼朝を助けて,平氏を討つために遠征軍に参加したり,東北地方に大きな勢力をもっていた藤原氏と戦ったりした。また,1221年(承久3)の承久の乱がおきたときにも,上皇方をおさえるために京都にむかい,合戦におよんでいる。小山氏はいったいどのような戦い方をしたのであろう。

A6
☆鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』をたよりに野木宮合戦(頼朝が兵をあげた直後の小山氏の合戦)を再現してみよう。


(野木神社)

 1183年(寿永2),頼朝の叔父である志田義広は,鎌倉の頼朝を襲う計画をしたが,頼朝に知られてしまった。そこで,体勢を立て直そうとして下野南部に兵を進めてきた。義広は,小山氏とあらそっていた足利氏(藤姓足利氏)と手を結び,小山氏を攻めようとしたのである。その義広軍は3万とも言われる大軍であった。義広は,味方につけという使いをおくってきた。小山政光は,ほとんどの家来をひきつれ,いまだ京都におり,留守を守っていたのは長男の朝政であった。
 源頼朝が1180年(治承4)に兵をあげたとはいえ,まだ勝敗のゆくえは見えない。兵士は少なかったが,朝政は頼朝のために戦う決心をした。味方になるというにせの手紙を義広に書き,野木宮(野木町野木神社付近)で待ち伏せをした。思わぬ敵の出現にあわてた志田義広軍に,朝政軍は攻撃を加え,はげしい戦いになった。時に25歳の青年武将朝政は,馬をあやつり敵をなぎたおしていったが,義広軍のはなった矢があたり,馬から落ちてしまった。命に別状はなかったが,傷を負ってしまった。戦場では,主人を失った馬がいなないていた。
 そのころ朝政軍を応援するために,鎌倉を出発していた弟の宗政軍が到着した。宗政は,いななく馬を見ると,兄朝政がうち死にしたと思い,死を決して義広軍に立ち向かっていった。これがきっかけとなり朝政・宗政軍の攻撃もさらに強まり,義広は退却をしてしまう。あとには多くの死体が残されていた。野木宮でのこの合戦は,小山軍の勝利におわった。
 この勝利によって,小山氏は,北関東では最も大きな勢力となった。長いあいだ勢力をあらそっていた足利氏は,志田義広と結んだために没落し,頼朝のために命がけで戦った小山氏は,多くのほうびをもらい,頼朝の信頼が厚い有力な御家人となっていった。それと同時に,頼朝にとってもこの勝利は,大きな意味をもっていた。頼朝にはむかった武士たちが敗れさっていったため,関東地方の多くの武士たちは,頼朝の味方になっていったのである。



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