小山の歴史Q&A
Q8
乙女河岸ってどんなところ?

(乙女河岸・おとめかし)

A8
☆小山市内を流れる思川にあった船着き場
 小山市には東に鬼怒川,中央に思川,西に巴波川がほぼ平行して流れている。鬼怒川は利根川に,思川・巴波川は渡良瀬川にそれぞれ注いでいる。この二つの河川は埼玉県栗橋市付近で合流し,その一部は現在の江戸川を流れて東京湾に注いでいた。江戸時代においては江戸への物資輸送手段として大量輸送が可能な船運が重要な役割を果たした。そうしたことから現在の小山市内にも荷物の積み降ろしのための多くの河岸が作られることになった。市内の河岸には,鬼怒川の福良河岸と中島河岸,思川の網戸河岸・乙女河岸・神鳥谷河岸と三拝河岸などがそれぞれあった。
乙女河岸はその中でも重要な役割をはたしていた。

☆乙女河岸と関ヶ原の戦い


(乙女村と乙女河岸/「日光道中間延絵図」東京国立博物館所蔵)

 徳川家康が会津の上杉討伐に向かう途中,大坂での石田三成の挙兵に対し,ここ小山で会議を行い,軍を返したことは『小山評定』として広く知られている。しかし,その際に、この乙女河岸が家康によって利用されたことはあまり知られていない。
 史料によると家康は1600年(慶長5)の8月4日の早朝,思川流域にある乙女河岸から船に乗り,途中,茨城県の古河を経て東京都の葛西に上陸し,5日には江戸城にもどっている。
 乙女河岸からスタ−トした家康は,その後、関ケ原の戦いに勝利し事実上の全国支配者となり,その3年後には朝廷から征夷大将軍に任命された。

☆乙女河岸と日光東照宮


(乙女河岸・おとめかし)

 1616年(元和2)から1617年(元和3)にかけて,日光東照宮の造営が始まると,思川は「御用川」とよばれ,旗印をかかげた御用船によってその資材の輸送路となった。日光付近では集められない造営用の各種の用材や漆・晒布・銅・鉄・鉛などを江戸川・利根川・渡良瀬川から思川をさかのぼり,この乙女河岸で陸揚げし,小山から壬生通りを経由して日光へ約75キロの距離を経て送り込まれた。
 そうした中でも有名なのが,1618年(元和4)4月に九州の黒田長政が,日光に寄贈した石の大鳥居であるといわれている。九州福岡において巨石を削り,海路を輸送して乙女河岸から陸揚げされ,陸路日光に運ばれている。この大鳥居は今も日光東照宮の表参道を登り切ったところにある。高さ9メ−トル,笠石の長さ14メ−トル,柱の直径が1メ−トルもある巨大なものである。乙女河岸の問屋山中八郎兵衛の努力で陸揚げされ,壬生・鹿沼・今市を経て日光に運ばれた。陸路は丸太を並べた上に石をのせて運んだそうである。     



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