明治40年度卒業の小谷野弁吉さんの尋常科3年生当時の話

「私は4年で卒業できる最後の卒業生で,一緒の組にいたのは40人くらいだった。そのうち,10人くらいは4年でやめてしまった。何しろ農家では少しでも手の欲しいところでしたし,学校にいっているより,早く卒業させて仕事をさせたいという時代でしたからね。私も4年で卒業させられた一人で,当時から考えると今の子供は幸せですね。新しい校舎ができるまでは南半田の金剛院まで,通っていました。先生はみんな男で,受け持ちは平野先生でした。時々,建てている学校を見につれていってくれました。できるのが待ち遠しかつたですね。新しい校舎に入ったときは,とてもうれしかったです。なにしろ初めて2階建ての教室に入ったわけですから,階段を用もないのにやたらと昇ったり降りたりしていて,先生に叱られたこともありましたよ。」
この校舎は,大正時代,昭和の戦中,戦後と使用され,昭和34年11目に古くなったとして,53年間の長いつとめを果たし,取りこわされました。この校舎は,この学校で学んだ多くの人々の心にたくさんの思い出を残したことでしょう。校舎の一部は,現在も荒井公民館として再生され,当時の面影を残しています。

     引用文献「 あゝ一貫学舎 〜羽川小学校120年史〜」
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明治41年入学,大正5年卒業の出井の篠崎勝一郎さんの話

「自宅から3キロも離れた学校へ,和服を着て,げたをはき,かよいました。道幅もせまく路面も悪く,冬季の雪どけにはぬかるみで足のふみ場もなくて,本当に苦労した。ふろしきに教科書と弁当箱を包み,肩かけに背負いました。弁当のなかみは麦飯で,おかずはだいずの甘煮かさけの塩びきかタクワンだった。雨の降る日は,はだしでした。学校に着いても教室には暖房の施設もなく,ふるえているだけでした。校舎も2階建の一棟だけで上下合わせても6教室あり,位置は現在の歩道橋(今の愛の橋より10m位北)あたりから西に建っていたと思う。うらは全部が雑木林で,校舎の南が相当広い運動場だったと記憶している。周囲には小高い土手があり,その周囲には,桜の大木が並木をなし,4日の新学期には満開に咲き乱れ,花吹雪の下で,鬼ごっこや石けりをしたものです。今もそびえている大きなケンポナシの根元で.冬の寒い日におしくらまんじゅうをやってからだを暖めたものです。私の入学した年から義務教育が4年から6年になりました。その後間もなくして高等科が併設され,修業は2年で入学は任意でした。私も授業料を払って高等科に入りました。授業料は月30銭だったと思う。私たちが4年のころ,児童が増加したので,入りきれなくなり,西側に木造平屋建ての4教室が増設されました。」

     引用文献「 あゝ一貫学舎 〜羽川小学校120年史〜」
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昭和20年から30年位の頃について,本校出身の柏木英夫さんの話

「弁当がない児童はお昼になると教室を抜け出し,みんなが食べおわるころまで木かげで遊んでいた。弁当を持ってきた児童も何日も使いふるした新聞紙で弁当をかくして食べていた。弁当の中身も良くて大麦飯にうめぼしかタクワンぐらいしか入っていなかった。新聞紙にさつまいもを2,3本くるんでくる児童もいた。飽食の時代の現在からは,信じてもらえないかも知れない。」

     引用文献「 あゝ一貫学舎 〜羽川小学校120年史〜」
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昭和37年頃,本校で給食主任をしていた柏木栄子さんの話

「児童・生徒の栄養改善策として,全国的に「完全給食」が広まり,遅ればせながら本校でも実施されることになった。実施にあたり,保護者にその主旨を説明しましたが,なかなか理解してもらえませんでした。いくらでも米があるのに給食をだすなんてもったいないとか,無駄な出費だといって,酒を飲んで学絞にどなりこんできた保護者もいました。校長先生と私で,地区の懇談会を開いてもらい,家では取れない栄養を給食で取れる話とか,みんなで同じ食物を食べることの良さ等を話したりしました。当時でも,弁当を持ってこられない児童がいました。それに弁当を食べるとき,新聞紙で隠していました。給食の必要性を理解してもらうのに何年もかかりました。
「完全給食」の実施にあたり,まず,給食調理員を2人をさがし,スタートしました。最初の頃の献立は,コッペパンと脱脂粉乳とおかず1品だけでした。おかずはコッペパンに合うように私が料理の本を片手に調理員を指導して作りました。児童は,毎日変わったおかずがでるので喜んでくれました。でも,脱脂粉乳を飲ませるのには苦労しました。炒り豆の粉を混ぜてココア風にしたり薄めると飲みやすいのですが,飲む量を増やさなければならないので大変でした。脱脂粉乳は政府の援助でしたので残す量の報告をしなければならないので気をつかいました。
 給食にシチューをだした時,児童が家に帰り,家の人にシチューのことを話したのでしょう。ある保護者から,学校ではごった煮を食わせているのかと抗議されました。「学校給食」が保護者に理解されるまでには,かなり時間がかかりました。
 はじめのころは地元の農家から野菜を購入していましたが,値段や質等で安定しないので,だんだんやめてしまいました。また,給食費の未納者が多いので,学校で集めるのをやめて,地域のPTAの役員さんに依頼するようになったら未納者がいなくなりました。学校でも集金に患わされなくて助かりました。
 だんだんと学校給食は,定着していき,栄養のバランスがとれたせいか,その頃から青鼻をたらした児童が減ってきました。」

     引用文献「 あゝ一貫学舎 〜羽川小学校120年史〜」
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「愛の橋」の歌発表会 元本校教諭古島先生の回想

 羽川小学校に赴任して3年目。待望の1年生を担任することになった。可愛い子供達に心配なことは,交通事故である。不安は2年生になっても続いた。そんなある日,校長室の詩“愛の橋”が目にとまり,曲をつけてこっそり歌っていた。
 その頃,たまたま先輩から校長先生が曲づくりを希望してると聞き,子供の歌を吹込み校長先生に聞いていただいた。全校生で歌ってはどうかということになり,当時間々田中学校長の植野樹郎先生に聞いていただいたりして,2部合唱に仕上げた。そして,発表会となった。その後,下校放送でも流そうということになり,マーチー用に編曲した。次には,運動会の入場行進曲に使おうと,編曲を始めた。全校生1000人が入場完了までに7分ほどかかる。演奏も大変である。1分間120のスピードでは,125でやり直し。録音は深夜におよんだ。
 運動会のダンスでは“小山音頭”に代わるものをということが,話題にのぼった。松長先生から早速“愛の橋音頭”の歌詞が届いた。無造作に「こんなのはどう」と手渡された。これが“愛の橋音頭”曲づくりの始まりである。歌詞で心地よく響いたのは「日本最初の橋かけた」である。あとはスイスイと運んだ。どうしてこんなに曲がわいてくるのか。熱気なのか。放送室で録音したが,歌ってくれた先生方の声が今でも耳に残っている。振り付けは藤倉チヒ子先生をリーダーに5年生の子供達がつくった。昭和63年10月の運動会で全員が踊り皆さんへのお披露目となった。こうして,“愛の橋”3部作@愛の橋 A愛の橋マーチ B愛の橋音頭がそろった。

     引用文献「 あゝ一貫学舎 〜羽川小学校120年史〜」
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